まちを走る診療車、医療を変える-長野県伊那市「モバイルクリニック事業」[インタビュー]
長野県の伊那市は、南アルプスと中央アルプスの二つのアルプスに囲まれ、豊かな自然と歴史を持つ街だ。この街には時折1台の青い自動車が走る。一見して、どこにでも走る洒落た車だが中身は違う。搭載されているのは血圧計や心電図モニターなどの医療機器。ドライバーと同乗しているのは看護師だ。
地域の医療には、医師の不足や高齢化による交通弱者の増加など、さまざまな課題がある。こうした課題を解消するために伊那市が公共サービスとして実施しているのが「モバイルクリニック事業」だ。モバイルクリニック事業では、診察のための専用車両「INAヘルスモビリティ」が患者宅へ訪問。看護師のサポートのもと、車内からビデオ通話を繋ぎ、診察室にいる医師が診察を行う。
こうした医療の提供形態は、公的機関にも民間企業にも前例がない。伊那市はなぜこのようなサービスを開始したのか。また、このサービスは未来の医療にどのような影響を与えるだろうか。実証実験の段階から深くこのサービスに携わった、伊那市役所企画部企画政策課の安江輝氏、池田佳幸氏に話を聞いた。
(聞き手:デジタル行政 編集部 横山 優二)
過疎、高齢化、医師不足 – 伊那市と日本が抱える医療の問題
―「モバイルクリニック事業」の内容を教えてください。
池田氏:モバイルクリニック事業は、診察のための専用車両が看護師と一緒に患者宅へ訪問して、看護師のサポートのもと、車内からビデオ通話を繋ぎ医師が診察を行うというオンライン診療を実施する事業です。現在、市内の6つの医療機関が本サービスを利用しています。
車内には、血圧計や体温計、心電図モニターやAED、そして日本ではまだ珍しい遠隔聴診器などが搭載されています。また、車両の運行は、医療機関と患者宅の位置情報や、移動時間、診察時間などの入力情報から、最適な経路と出発時間などを計算するシステムによって管理されています。
このサービスを利用する場合は、まず医師から患者さんへ本サービスについて丁寧に説明をしていただきます。現在は厚労省によるオンライン診療のガイドラインに則った形で高血圧症や糖尿病など、慢性疾患の患者さんを対象としています。そのなかでモバイルクリニック事業のオンライン診療が利用可能と判断し、患者さんの同意を頂けた場合には、医師と患者さんが時間を合わせ、医療従事者から車両予約を行います。診察時間になると、患者さん宅に診療車両「INAヘルスモビリティ」が訪問し、車内で看護師がサポートをしながら医師へビデオ通話をつなぎ、オンライン診療を行います。薬剤の処方が必要な場合には、いまのところこれまで通り薬局へ行く必要があるため、多くの場合ご家族が後日取りに行くことになります。
―地域医療の観点で、伊那市が抱えていた課題を教えてください。
安江氏:伊那市は長野県で3番目に広い面積で、その広い地域に集落が点在しています。高齢者などに医療を提供するために医療機関では訪問診療を行いますが、1軒につき片道で30分~1時間かかることもあり、時間と労力を費やします。医師の不足も顕著で、伊那市が属する二次医療圏の上伊那医療圏は、医師の偏在を表した「医師偏在指標」では、全国335の二次医療圏中で270番目と低い水準です。市民も高齢化しており、免許返納する方もいらっしゃるため移動困難ないわゆる交通弱者も増加しています。患者さんが外来診療を受ける場合にもアクセシビリティに課題がありました。
―どのような経緯で「モバイルクリニック事業」を立ち上げることになったのでしょうか?
安江氏:伊那市では平成28年より、最新のテクノロジーを活用し、さまざまな地域課題の解決を目指して、新産業技術推進協議会が組織されました。そのなかで、公共交通の維持や移動弱者の方々の支援という観点から自動車の自動運転を活用した公共サービスを検討しました。
平成30年には、総務省が開催した地域の課題解決等に向けた5Gの利活用アイデアを募る「5G利活用アイデアコンテスト」への参加や、国土交通省と共に行った自動運転サービスの実証実験などを通して、段階的に今のサービスの原型ができあがってきました。
その頃、トヨタとソフトバンクなどが共同出資した「モネ・テクノロジーズ」が設立され、彼らが主催した展示会で、フィリップス・ジャパンが診療車両イメージのモックアップを展示していました。これを見て、我々が検討してきた公共サービスと、この診療車両を組み合わせれば、医療における地域課題解消に大きく貢献するサービスを提供できるのではないかと感じ、伊那市からモネ・テクノロジーズ、フィリップス・ジャパンの方々に協力を呼び掛ける運びとなりました。
質の高いオンライン診療で医師、患者、家族をサポート
新型コロナウィルスの影響が拡大し、人々の意識は大きく変わった。人同士の接触に対して敏感になり、会議を始め、飲み会、演劇、旅行までもがバーチャル空間で行われる世の中になった。その潮流は医療にも及ぶ。
「オンライン診療」とは、スマートフォンやPCなどのビデオ通話機能を活用して、医師の診察を受ける受診方法のこと。2018年に初めて保険診療として認められ、とりわけアフターコロナでは対人の接触機会を減らす手段として普及が期待されている。しかし、そうした期待とは裏腹に直近での普及率は15%程度で頭打ちになっているという報道もある。課題は「診察の質」だ。オンラインでは医師が患者に触れることができず、聴診器も当てられない。この不十分な環境で診察を行うことに抵抗を持つ医師は多く、導入には消極的だという。
伊那市が取り組むこのモバイルクリニック事業は、このオンライン診療を車内から行うサービス。こうした環境下で、医師、患者の双方からはどのような評判を受けているのか。
―利用した医師からの反応はいかがでしょうか?
安江氏:移動の大変さなど、訪問診療の課題を解消する手段として好評をいただいています。通常のオンライン診療では触診や聴診ができないという問題があります。また、照明が暗くて見えない、カメラの角度が悪いなど患者さん側の環境をコントロールすることもできません。モバイルクリニック事業では触診は看護師の方が代替することができ、遠隔聴診器で聴診も可能です。また、照明やカメラの角度も看護師の方々がしっかりサポートしてくださるので安心です。車内というプライバシーが守られている環境で、オンライン診療のガイドラインに則った手順を実現しており、診察の水準は対面に近いという評価をいただいています。
―患者さんの反応はいかがでしょうか?
安江氏:移動の大変さというのは医師と患者さん両方にとっての課題でした。体験した患者さんからは「移動が楽になった」という声をいただいています。また、これまでの外来の診察では、病院で長時間待ち、実際の診察はすぐ終わってしまうなど、待ち時間も課題となっていました。こうした点が解消されたことも喜んでいただいています。
また、モバイルクリニック事業によるオンライン診療は、患者さんだけではなく、患者さんを支えるご家族にもメリットがあります。外来で受診をするご高齢の患者さんにはほとんどご家族が付き添います。これまでご家族は短い診察のために往復で何時間も費やすことになり、仕事との両立に支障が生じることも少なくありませんでした。しかし、本サービスを使用している患者さん家族はそうした苦労が大幅に軽減され、買い物や仕事をすることができるようになったと聞いています。